女性の解放

駐車場と同様付け加えだ。大切な記録なので残しておく。

私が、ある者に注意をする。注意された者がパワハラと捉え、訴えたと推定できる。

11月:社長と部長と担当課長から尋問を受けた時は「セクハラ」として、注意を受ける。

12月:該当者が正式にハラスメント委員会に訴える。それ相応の処置を受けるが、内容は知らされない。

1月:部長に問い合わせても、内容は知らされない。

1/10:状況的な推測から、パワハラの訴えがあったと考える。

 

当初訴えが歪められたのはよく分かる。パワハラかもしれないが、私の主張の方が道理があり、訴える側がひかえたに違いない。

 

女の同僚がそれとは比べ物にならないパワハラを行っても訴えられることは一度もない。(思い出すだけで2人物でそれぞれある)

 

 

表題通りの書籍が20世紀中庸にあるようだが、関係ない。

まだ

解放

されてないらしい。これは一部地域でとか、多くの地域でというのではない。

どこの地域でも、解放は完了していない。

 

対照的に人種解放は、合衆国では大体完了している。差別は残っているが、法的なものはないはずである。ブラジルではずっと前に完了している。

 

理由は簡単である。人種は遺伝子的にも差異は非常に小さい。性能差が少しあるだけである。個人間のバラツキを考えれば、肌の色や身長以外は、誤差程度しか差異がない。

 

性差は厳然として存在する。男性が妊娠した話は、男性の定義を曲解した場合にしか存在しない。なので、ずっと

解放

される訳がない。性別間の優劣関係が社会の変動に応じて変化しているだけだ。

 日本における近年の

女性解放政策

は主に女性を怠惰にさせること(有権者の半数以上は女性なので仕方ない)を目的としたもので。女性保護くらいの意味は持っても、むしろ男性虐待くらいしかしていない。これは

女性解放

とは反対の政策になる。

 

例えば女性(あるいは男性)の商品化を完全に禁止すれば、かなり不気味な世の中になるはずである。実現した最小限の社会さえ聞いたことがない。

 

別のstrictな例で考えれば、ある女性(あるいは男性)が強姦(この定義も保留しておく)されていた場合、それは

女性解放

といかなる関連を持つか考えてみる。多分直接の関係はなく、社会システムと

女性解放

がそれ程関係がないことが明確化されるだけである。むしろ、社会によって強姦の定義が変化するだけである。

 

マルクスが問題化していたかどうかは知らないが、共産主義も全くの無頓着だった。

文化大革命は階級の破壊を目論んだが、「女性階級」の破壊は少ししかしていない。あの残虐非道な毛沢東にも手がつけられなかったことだ。

 

当然こんなテーマを研究して飯食ってるやつは・・・言及不能