何ものにも制御されないこと

まず2つ程言い訳をする。1つ目は、ここに書くことは近年私に起こった不幸の様なものとは余り関係ない。2つ目は、表題の事は、経験則に基づいた私の信じる物理法則のもとでは、完全には不可能であるということである。私に意識があるにしてもそれはメカニズムに過ぎない。意識とは何かは、デネットでも読んで勉強して欲しい。

したがってこれから書くことは私自身というメカニズムの経験に基づく感覚に過ぎない。

 

私は生来、何某かによって制御されない。他の人はそうでもないようだ。

 

6つ上の兄はサディストであった。幼少時に私を制御しようとし、行動の上では私は彼の言いなりになった。所詮、私の意識の制御など出来ていないので、彼はいらついていたようだ。折檻は繰り返された。見過ごした親にも同様な起来はあり、今では恨んでもいない。そういう意味で私を制御できるのは祖母か姉だけだった。

 

保育園の教員は私の意識が制御できないのを知って、嫌がらせはしたが結果は同じである。年長を担当してくれた年配の先生は一人私を興味深く眺めてくれた。尊敬する先生の一人目である。彼女は私を廊下に出したりはしたが、それでも敬意は変わらない。なので、その折の私は泣いていた。でも彼女の判断が間違っていたとは思わない。

 

小学校の教員もよく似ていたようで、敬服する先生は何人かいた。

私は小3で同居した大叔母を亡くす。死について、主体の意識の消失について考える。少しだけ他者より早い。「世界の終わり」はそれ程先ではない事を自覚する。

高学年を受け持ってくれた先生は、私を制御しようとはしなかった、一度だけ、彼自身の制御が効かない、いや、そのような振りをして私を叱ってくれた。感謝している。

私が私自身の制御ができず窓ガラスを割った時は、校長先生が静かに厳しく叱ってくださった。

なぜ蹴ったのですか?

あいつらが、私を閉じ込めたから・・・(いじめではない、悪戯である)

蹴ったら、ガラスが割れるのはわかるでしょう。

割れるとは思わなかったのです・・・

それでは駄目ですね。

当時は「駄目」な理由が分からず、理不尽に感じた。今では感謝している。

 

中学時代は比較的「人間的な」生活が出来たようだが、それ故に私という主体はその拠り所を失い、陽気に将来を考えていた。ノーベル賞の様なものはもう諦めていた。いい意味で快楽的、エピクロス的であったとも言える。それでも何かやらかしては、職員室に一人で正座なんてことをしていたが、多くの先生は暖かかったし、同級生は皆優しかった。

一人の先生が卒業時に全員に向けた訓示が今でも心に残っている。

この学年の皆さんはすごく優しくて、私は非常に好きだった。

でも、その事は続かないよ。だから気をつけて生きていきなさいね。

私のことを一度も叱ったことのない先生である。私に向けて言っているのは自分でも分かる。私は人間世間というものを言葉で突き刺された気がした。

 

高校時代は制御されたくない私はだからこそ部活(1年間のみ)での先輩の指導が心地良かった。理不尽な評価をされてそれこそが喜びであった。後輩に対する扱いが不明なので、1年の3月に退部した。

勉学はその呼び名にふさわしくはなかった。勉めるという表現が当てはまらなかった。中学までと違い上限がないので、気に入った分野(数学と歴史)を教科書と授業以上に学習していた。それでも一流大学の数学入試問題の半分は回答不能だったが、私の前の壁というより、単なる残されたステップであったので、受験時に至っても、気にしてなかった。

当然受験は大した難易度ではないゲームをやる感覚だった。

ただし、中学の折に制御されていた制御されることのない私はここに来て迷いを見せる。「良い大学」に入ることは明らかに制御されに行くことと同意である。*1むしろ、受験に失敗して三流大学に入れば中学の折の自分に戻ることができる。父母の希望する医学部へ行けば制御できない自分では居られない。

結果私はより上のある大学に入ることになる。今から考えても間違いとは思わない。

 

 

 

*1:2年後、弟はこの時点でアメリカの大学に進むことを決意するようだ