「微分のことは微分でせよ」
という問題の解答だっった。
聞いたことはあるので、解答は分かったが、そもそも、微分と積分は表裏一体である。(ニュートン or ライプニッツ)片方だけ使うほうが理不尽だと思う。
どういう意味だろうと、ネット検索していたら、
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I6848762-00
が引っかかった。
梅田先生なら、いいかげんなことは書くまいと思い。図書館で転写してきた。
しばらく読んで、高木貞治は
連続関数の原始関数の存在
について、積分を使わなくてもできるよ、と言っただけのようだ。
私がやると、連続関数のリーマン積分可能性を使って説明してしまいそうだ。*2
梅田先生はそのあたりも含めて「有限増分不等式」で十分だとしている。書き方を変えれば「リーマン上積分」で十分であるとも言えるらしい。積分の収束性、それを導くための一様連続性*3は示さなくていいということらしい。
あと、この諺と合わせて取り上げられるが、結局後の人が関係付けたらしい「項別微分の十分条件」も精密化してまとめてある。
さらに
平均値の定理は不要
という所はさすがである。伝統的な微分積分の教程で習った私でもそう思う。*4
まあ、私は言われてみれば気づく程度の鈍感さではある。
定理をいかに証明すべきかについては、あまり真剣に議論しないほうがいい。特に教育的配慮を入れた場合、それは自然科学ではなくなる。
有限増分不等式の方が多変数に拡張しやすい。1変数で平均値の定理と比べて「本質的か」とか「易しいか」とかの議論はあまり意味がない。当然「微分のことは微分で」というのは、あまり意味がない*5。「選択公理を使わずに」とかいうのでやっと意味が生じる。
そうか、考え方によっては「連続関数」の定義は積分を使うのがよろしいのか?
連続関数とは、ある関数の原始関数になっている関数である。
これこそ、教育上まずい定義であろう。
良し悪しは別として、解析概論での複素対数関数の定義は
となっていたのを思い出した。