インパール作戦

Wikipediaにも

現在では『史上最悪の作戦』と言われている。

とある。

1944年昭和19年)10月に、チャーチルはマウントバッテンに次のように指令している。

貴官の第一の任務は日本軍に執拗に繰り返し繰り返し接触し挑発し続けて日本軍を疲れさせ、特にその航空戦力を消耗させることだ。そうして太平洋正面からビルマ正面に日本軍の戦力を吸引することである。 — John Ehrman, Grand Strategy ⅴ (London: Her Majesty’s Stationery Office, 1956), p.148(荒川憲一による訳。[16]

この指令を受け、英印軍にとってビルマ戦域での作戦は支作戦となり、11月以降は最小限の兵力で日本軍を誘出、拘束することが目的となった。荒川憲一は、日本軍が攻勢をとる為に兵力を増強すればするほど「思うつぼ」だった旨を述べている。

最初っから、負けが確定である。

適当に拾うだけで、自国であり祖父の戦死の地であることさえ忘れれば、空いた口が塞がらない。

(前略)いわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した[35]。(中略)

皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「チャーチル給与」と呼ばれた)を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だった。(中略)

日本陸軍内の抗命事件

現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。

  1. 余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
  2. 余は第十五軍を救わんとする。
  3. 軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。

さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため[39]、独断で更にフミネまで後退した。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れて師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることは無かった。三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った[40]

 この愚かな戦闘に至るくつかの戦争が不景気のため東北地方で身売りが多いという一点であった事を考えれば、身売りぐらいならそれでいいのではと思ってしまう。

抗命事件の辺りは決定的に大元帥天皇の指揮権に由来する失態であり、西洋なら革命が起こっておかしくない。*1

 

宮崎繁三郎 - Wikipedia

この方は多少美化されているとしても、かっこいい。退役後、商店経営って所も大好きな感じだ。

 

火野葦平 - Wikipedia

火野正平ではない所が味噌だが、火野正平の方がオマージュであろう。

 

二百三高地と並ぶ、大日本帝国陸軍最大の失策と考える。いや、ヒトラーの東部戦線の次くらいだろうと考える。

質的にはノモンハン事件*2と同様である。指揮系統の無責任さが際立つ。ただしインパールの方が圧倒的に規模が大きい。

そういう意味では二百三高地は無責任な大本営の作戦ではあったが、軍の目的意識はそれ相応にあったとも言える。本来は海軍の失策から始まったのに、陸軍の沽券に関わる問題になったのは、乃木希典大将と大本営との人間関係のようなものだったようだ。二百三高地を攻略する戦略的意義は非常に低かった。

インパールは戦略的意義はない。目的意識において既に希薄である。

現在のビルマ*3全土を制圧しても

援蒋ルート

とやらを止めることなど出来ない。やるなら、インド=大英帝国全土を制圧する必要がある。そして、日本陸軍にはビルマ全土を制圧する兵員は残されていないので、当初の意義さえ元々ない。

目的を無理に探せば

海軍は海でドンパチやって英雄気取りだ。俺らは中国で停滞してる。俺らも一発くらいはやりたい。

という一点しかない。

もう少し言えば、

ガダルカナルでは海軍の尻拭いをして、カッコ悪い「転進」をさせられた。今度は自分らだけでやりたい。

ということになる。

インパール作戦 - Wikipedia

 

 

*1:実際天皇は敗北よりもクーデターを強く恐れていたことがよく言われている、日本の特異な点は革命の可能性がなかった所だ。

*2:「事件」とは呼べない「紛争」が正しい

*3:ミャンマーという国号は使うべきでない