私の系譜(父方)

 昨日は施主(父)代理のような立場で、祖母の弟に当たる方の17回忌及びその息子の33回忌法要に出席した。
かなりややこしいので、整理しておく。
 祖母は父が5歳の頃に亡くなっている。その頃、父はこの方のうちに預けられた時期がある。
 その後、祖父が後添えをもらうと実家の方に返されたようである。父は今も昔も寡黙であるがこのような所に起因しているのかもしれない。

 話は外れるのだが、祖父は田舎の水呑百姓の次男(いや三男かもしれない)で少しばかりの田畑を分けてもらってはいたが、住込みに近かったのではないかと思われる。父がまだ物心つかない頃に満州に出征してしてみたり、帰ってくると、祖母を連れて大阪に出稼ぎに出ていたようである。昭和のはじめにタクシーの運転手をしていたらしい。祖母は大阪で亡くなったらしい。ともかく、その時期に田舎ではないような少しばかりの現金を得て、田畑を買い、後添えの祖母と二人では百姓仕事、これは文字通り少しばかりの水田や養畜、果実栽培、なんとか手に入れた不便極まりないところにある山田、祖母の内職などで、本家よりは身入りが良かったようである。

 外れついでに、後添えの祖母、ここでは義祖母としておくが私にとっては中学に上がるまでは血縁上の祖母だと思っていた人の話を書いておく。祖父の親戚に当たるらしきことを存命中に聞いた覚えがある。こちらも祖父と結婚するときは後家であったらしい。幼いころ出自については色々話してくれたが、婚籍については一言も口にしなかった。同じ村の生まれで、家は大工をしており、三度三度米の飯が食べれたらしい。当時同級生は尋常小学校を上がると女工さんになる人が多かったが、実科女学校まで行かせてもらえたのが嬉しかったと言いながら、その時覚えたピアノを時折嬉しそうに弾いていたのを思い出す。兄弟は7人いて一番上は上級学校にも行かず下の兄弟を学校行かせるために働いていたらしい。その方とも何度かお会いしているが、紳士然とした立派な方であった。末の弟に当たる方は街の実業家の処に養子に行き、そこの家業を拡大して、私が小さい頃はお金持ちのおじちゃんであった。

 というわけで血筋上の祖母の存在は私は子供の頃知らなかったわけではあるが、家族で何度か在所には足を向けている。「父が幼いころ預けられた本家」と説明されていた。お陰で今に続く私の記憶上の混乱が生じたわけである。祖父の本家と思い込んでいた。先出の祖父の本家は実家のとなりにあり、〇〇おじちゃんと呼ばれていた。
話を祖母の実家にもどすと、この家は曽祖父の代でガラス屋を営んでいたらしきことを32歳の住職さんが言っていたが、誰も肯定しなかった。あるいはその長男に当たる方がガラス屋をやっていたのかもしれない。私が父母から聞いた話では曽祖父は身一つで商売を起こして、実際最初は港町から内陸まで水飴を売って歩いていたらしい。祖母の弟は曽祖父の築いた店を主に駄菓子を売る雑貨屋として営んでいたようである。この港街は当時景気もよく羽振りも良かったようである。その頃父が預けられたりしている。父はその祖母の実家でよく鶏肉を食わしてもらったらしく、今だに鶏肉とウースターソースが大好きである。
父からいとこに当たるその息子は郵便局に就職が決まって働き始めた頃、脳腫瘍で亡くなる。当時は原因不明の病だったようであるが、今なら治療可能な病気である。父はその話をするときひどく残念なようである。一人っ子の父にとっては幼いころの兄弟のようなものであろう。

 今回法要をあげた墓所には三基の墓標があり、ひとつは今回の法要の主二人のもので、もう一つは曽祖父のものと見受けられる。残りの小さな墓標は祖母のものと言っていた。私の実家でも祖父と共にお祀りしているのだが、こちらの方が本当のお墓と考えたほうが良さそうである。戒名は同じであろうが、確認してこなかった。