私の系譜(母方)

 父方は忘れないうちに書いておうこうと思って書き留めた。
思えば母方もかなりややこしい。

 母は山間の村の村医者の家系の生まれである。今でも1時間に一本しか汽車が来ない駅まで、歩いて1時間はかかる。子供の頃年に1度位は、大抵は秋の彼岸だったように思われるのだが、父の運転で墓参りに行った。海辺の村では見られないようなトンボたち、セミは取り放題で、木をけるとカブトムシが落ちてきた。行き帰りが高速道路はおろか、バイパスさえなかったので、町中の渋滞した国道を長い時間かかったのを覚えている。大体弟二人で両親と行くのだが、もう、暇つぶしの会話も途絶えるくらいだった。

 祖父は家を継いて医者になるが、都会に出て勤医をしていたようである。その頃母と続いて二人の叔母が出来たようである。太平洋戦争が始まり、祖父は何を思ったか、とはいえ、母の話だと、うだつのあがらない勤医を嫌がったのか、祖母の実家の親戚に偉く出世してのちに東京裁判までいくことになる軍人さんがいて軍人が尊敬されていたとかあるのだが、軍医に志願することを決めたようである。ビルマへの出征だったらしい。当地で病死とのことである。援蒋ルート撃破とか言っていたあれだろう。なにやら、母の話だと病死と弾にあたって死ぬのだと戦後の遺族年金が違ったらしい。祖父の軍服姿の写真とかあるはずだが、母それを見ようとはしないので、見たことはない。*1陸軍中尉だったようだ。私の感覚だと軍医って言うと大尉だと思うのだが、よっぽど駆け出しだったのだろう。母はある時期から家の本棚に医者をしてた頃の祖父の遺影を飾るようになった。母にとって優しい父親の姿をよく映している写真なのだろう。叔母二人は幼すぎて祖父の記憶はないらしいが、母は戦死の知らせとともに届く箱に父親が入っていると信じ、本当のところは位牌しか入っていないのだが、埋葬するのを頑なに拒んだらしい。

 その後母たち姉妹は祖母とともに祖母の実家が面倒を見ることになる。少し開けた場所の地主で彼女たちが引き取られると戦争も終わり、玉音放送も聞いたらしい。言うまでもなく大人にも何言っているか分からない音質だったようだ。すぐに農地改革が行われ、少しばかりの豆と引き換えに身ぐるみ剥がされたようだ。その家は前からやっていた造醤を続けて生計を建てたようだが、出戻りの母たちは肩身の狭い思いをしたらしい。実質こちらが母の実家というところもあって、年に何度か両親に連れられてご挨拶に、正しくは弟と二人で広い家屋の中を走り回ったりしていた。曾祖母がまだ存命で、寝たきりではあったが厳しい方だったように思う。祖母もその頃は糖尿病を患い二人並んでよこたわっていた。かわいがってもらったような記憶はないが、祖母は優しそうな人だったし、曾祖母にも叱られた記憶はない。曾祖母が亡くなった時、その家中の親戚の一人が角帽をかぶってきていて、おばあちゃんに見せてあげなさいと言われていたのを覚えている。僕も大学にでも入ったらあんな帽子もらうのかなと思っていたが、その機会は無かった。旧制中学の流れを汲む高等学校には今でもその伝統が残っているかもしれない。

 祖母の実家は今書いたように旧家と呼んでいいであろう。祖父とて村医者とはいえ殿様の御典医と関係があったと聞いたことがある。田舎の百姓のせがれに嫁に来る母は悔しかったに違いない。父なし子というのは本人も自覚していたので諦めたのであろう。
 祖母の実家の二つ隣の屋敷の風情は異彩を放っていた。立派な石垣をしつらえて、まるでお城のようだった。母もあまり話たがらないので、どうも成り上がりらしいのだが、塩田王だったか、記憶が定かではない。

*1:実はよく考えると見た覚えがある