小説を書いてみる

 彼は目覚めて一仕事終えた後、めずらしくサッシを開けた。朝日の入らないサッシ、夕方には西日が入る。そもそもなぜ数学者になろうとしたのか、今の彼にとって十代の自分は思い出すということはできず、ただちらついた古い映画の映像のようで、そこに痩せた少年がいるだけである。少年の気持ちを推し量ったところで無駄である。彼は既にこの世の中に希望を見いだせなくなっているということくらいしか分からない。

 そこまで思った所で彼は今の自分が成長したようでいて、その頃とそれ程変わらないことに気付く。そうあのころ、高校生だろうか、彼は只サラリーマンになるのが嫌だった。仕事の内容はともかく、どうせ高校の続きじゃないかと思った。中学までも面倒だったけど、高校はそれ以上に面倒だった。男も女も盛りの最中か、または過ぎている。ただ勉強するにしては面倒な組織だった。女は主婦同士の虐めを始めているし、男はもうその言いなりになっている。今思えば、男子校に行くべきだったのかもしれない。実は彼はそう考えてはいない、自分の過去の選択など変えられるわけがないので、そういった後悔はしない。

 仕事に就いても変わらない。というより高校時代に戻ったと言ったほうがいい。

 彼の青春がいつだったのか、彼自身においてもわからない。中学時代、失恋もしたけど青春だった気もするし、まだ子供だった気もする。高校時代、青春と言うにはくだらなすぎた。周りの女達は我が世の春を極めていたが、彼は孤独を感じていた。いや、孤独だった。彼は数学を始めた。今もその頃と同じだろう。数学を始めた。そもそも、青春というのがどういう意味か、その言葉を最初に聞いた6歳の頃から今の今まで、余り分かっていない。第三者視点でいえば、色々やった大学院生時代がそうかも知れないが、多分青春の定義とは違うのだろう、何しろ同級生の殆どは仕事について、伴侶までもらっている輩が多い。まあ、遅れてきた青春とありきたりの表現もできる。

 孤独はいつでもやってきた、別にありきたりのものだと思っている。誰にでもあるものだ、大抵の人は自慰行為でごまかす。彼の場合は自慰行為の方法が他の人より少ないだけである。まずは数学でそうであったと言って良い。

 彼は近頃数学をしていない、とは言えそれは半年ほどのことであり20年の内では短い方であるなと反芻した。そう自慰行為を必要としていない。一般的な言い方をすると「忙しい」となるが、この言い方は彼は好まない。彼にとって数学はもはや単なる自慰行為ではなくなっている。

 そんなふうになったのは、何時からだろうか?と考えた彼は30年前にもう一度帰る。学生時代彼は落ちこぼれた。その後「青春」とやらもやった。まるで数学にしか存在価値を見いだせない自分を全否定するかのように、自虐的な行為に走った。就職して大人ににはなりきれず、自虐行為さえ禁止された。高校の頃のように只の地獄だった。でも数学をせずに別の自慰行為を探し続けた。

 そういえば5年ほど前彼はその自慰行為をしている一つの碁会所で、とある青年大学生と出会う。彼もあの頃の自分と同じように彷徨っているのが話でわかった。彼は地元の一流高校から三流大学へ進学したばかりである。今更彼を慰めるつもりはないと彼は感じていた。なぜなら、就職した、あるいはその前挫折したときの自分と同じでそのような事はなにの役にも立たないことを知っていた。彼はたまたまその時興味を持っていた数学、moduler formについて学生に話しかけた。

 これは、数学科4年生にやっと説明できる内容で、同年の自分には理解不能だった内容である。学生は彼の話を2時間ほど聞いた。彼は主には彼自身の理解不足から学生への説明がうまく行かないことに苛立っていた。きっと学生も不愉快に感じているだろうことも彼を一層不愉快にした。数学の話は2時間では終わらない。でもやめようと思った。「ごめんな、おもろなかったやろ。」「いえ、面白かったですよ、高校の頃の数学を思い出しました。」

 彼は少し驚いた。いや嬉しかった。それからだろうと今の彼は思った。彼の数学は自慰行為ではなくなった。その学生とは半年前の友人の結婚式まで一度も会っていない。彼の最初の学生とも言える。教えることと研究することは背中合わせである。この嫌いな標語ー彼は標語は全て嫌いであるーが頭をちらつく。それから、自慰行為ではない、ましてや飯のためでもない、数学が始まったようだ。

 繰り返しになるが、「始まった」は正確ではない。オートバイに憧れて、毎月雑誌を買ってきては読み漁っていた中学生の頃に帰っただけである。あれは自慰行為ではないと彼は確信している。田舎では少ないsports moter cycle が置いてある他人の玄関先でこれSRX-4だねってつぶやいていた自分は、自慰行為をしていたわけではないとかんかえている。大学一年のときSchwartzの「超関数の理論」の古書を買ってきたときもそうだったはずである。

 ふと思い出せば、自分をradicalにしたり自慰行為に走らせているものが失恋であったことに気づく。高校への進学は、同じ高校へ進むにも関わらず片思いの相手との別れであったし、大学での自慰行為はSchwartzの数学(100年前)にさえある程度以上適応できない自分への失望から生まれたものだし、大学院時代の放埒とも呼べる自慰行為はその女性からの正式な断りに起因している。

 彼は再び気づく、自慰行為の定義は本来の欲望が満たされないときの代理である。だから当然とも言える。「失恋」は女性相手とは限らないし、恋愛対象とも呼べない女性相手だったこともある。

 自慰行為とそうでないものとの差は、自分を慰める目的かどうかである。いまの彼には数学はそういった目的ではない。純粋に楽しみたいと思っている。囲碁だってそのはずである。

  ある日、彼は思いがけず高校時代の女の同級生と出会った。彼はその日も、とはいえこの十年間その行為は断続的である、子供囲碁教室の全国大会予選に顔を出していた。昼過ぎに大会は終わり、顔見知りの子どもたちに声を掛け、彼らは帰っていった。1位~3位は居残っていた。彼の話す相手ではない。アルバイトの初段に満たない学生が2位らしき子と打っていた。彼の横に他の父兄とは離れて座っていたいたお母さん、彼女のところに1位の子が近づいてきた。「よかったね、全国だね」当たり前の挨拶をした。お母さんは「それでは、失礼します」と挨拶をした。彼は挨拶として「どちらまでお帰りですか」と尋ねた。Tにある彼女の実家までと言ったので、彼は自分の実家が近いことを告げた。「T高校です」、彼の聞きたくない名前だった。学年を聞いたら、同級生だった。お互いの認知はないが、学力では彼が1位で、彼女が女の1位であることは推し量られた。「M先生は頭が良かったですよね」という会話だけ合った。M先生は彼にとっては2年の担任で尊敬できる先生で、頭が良いと言うより、他の教員とは違った考えを持った若い先生だった。彼はその瞬間にその同級生が自分よりは物事がよく分かる頭の良い人だと分かった。

 彼は最近しきりにあることについて考えている。男と女は平等なのかという疑問である。誰に質問しても平等ではないという答えが帰ってくる。学校の教科書には男女平等であるべきだと書いてある。じゃあ、マルクスの言う発展段階なのかと考えるとそうとも思えない。じゃあ、ともう一度自問する、スターリンの言う言語のようなものかとも考えてみる。スターリンは「言語は上部構造でも下部構造でもない」と規定する。彼はマルクスレーニン主義者ではないので、どうせこの案は廃案になる。

 彼はある朝目が覚めて思った。
「私のダイヤのプライドは鋼の体を削るであろう」
その日彼は、週に一度の楽しみにしている囲碁教室に行く予定だった。囲碁教室で彼は子どもたちの先生をする。子供はおじさんと呼ぶが先生と思って接してくれる。彼は只のおじさんを装いながらも先生をする。どうせ、本当の先生は彼のことを「先生」と呼んでいる。多分、母親たちからは嫌われている。彼は嫌われないようには努力しているが、彼の思う先生像と彼女たちの理想とする「先生」には啓きがある。

 ダイヤのプライドは3ヶ月前に出来た、そのうちダイヤモンドより硬い何かに変わるかもしれない。彼のプライドは徐々に固くなっているが。彼の行動は柔らかくなっていると他者には目に映るかもしれない。従前と比べて、その場々で、彼の行動や考え、嗜好でさえも、自身の意識で変化させていく。これは柔らかいというより硬化していると考えるのが当然だが、観測の仕方では柔軟性が高まったと勘違いする人もいるだろう。

 30年前ならプライドは鋼鉄だったかもしれない。それでも鋼の体をひどく痛めていた。今では意識的に削っている。彼は寿命を意識せずにはいられないのだが、その事は愚痴ることはあっても、本人にとっては本質的問題ではなくなってきている。彼は考える、言うまでもないがあの頃、いや2才児の頃の方が柔軟性があった。

 「パンターニはなぜ死んだのか?」彼はこの疑問を持たない。先日15年前のパンターニの死を彼の伝記映画を見て知った。映画の最後までそのことは伏せてあったので、その時初めて知った。さすがに少し驚いたが、理由はそれ程不思議ではなかった。家族は今頃になって他殺だと訴えているらしい。どうせ、他殺じゃないか。特に母親づらしているお前が殺したと言っていい。彼が死んだのは自転車が好きだったから、正確に言えば自転車に乗って競争するのが好きだったからで、それを禁止されたからに違いない。多分ドーピングしながら競争するのは嫌だったようだ。「もう自転車には乗りたくない」彼がプロ入りを決めたときの発言らしい。それだけでもその証拠になる。せめて、くだらないプライドのために死んだとは思いたくない。